「箏」と「琴」、一般的には両者とも『こと』と読む場合が多いのですが、正しくは「箏」は『そう』、「琴」は『きん』と読みます。
ただし「お箏」と書かれた場合は、一般的な読み方に従い『おこと』と読みます。
古くから両者の混用、誤用が見られましたが、「箏」の字が常用漢字に含まれていなかった時期があり、代わりに「琴」の字を当てることが多かったため、現在ではさらに混用が進んでしまっています。
しかし、「箏(そう)」と「琴(きん)」は、本来全く別の楽器です。
最大の違いは、「箏(そう)」では柱(じ)と呼ばれる可動式の支柱で絃の音程を調節するのに対し、「琴(きん)」には柱が無く、絃を押さえる指のポジションを変えることで音程を調節するということです。
「琴(きん)」には、一絃琴・二絃琴・七絃琴・大正琴などの種類があります。
「箏」 と 「琴」 の違い
箏について
箏は「龍」の象徴とされ、現在でも箏の部分の名称には龍頭、龍尾などの呼び名が残っています。
生田流式の箏は楽箏(雅楽の箏)の形をかなり残しているのに対し、山田流式の箏は俗箏として音量が大きく、豊かな音色に改良されています。
現在製作されている箏は一部を除いてほとんどが山田流式の箏であり、生田流の奏者も山田流式の箏を使用することが多くなっています。
また、宮城道雄が開発した十七絃箏は、近年において最も有名ですが、それ以外にも1969年に三木稔、野坂恵子が共同開発した二十絃箏、二十五絃箏、三十絃箏、三十二絃箏などがあり、現代邦楽、現代音楽双方の作曲家たちによって、新しい箏の表現法が生み出され、洋楽器とのセッションなどにも幅広く使われています。
箏の流派
生田流、山田流の大きな違いは爪の形と楽器を構える姿勢にあります。
生田流は角爪を使用し、楽器に対して左斜め45度に構えるのに対し、山田流は丸爪を使用し、楽器に対して正面に構えます。
演奏曲については、双方の流派ともに大きな違いはありませんが、流派の特徴として、生田流は「独奏曲」、山田流は「歌もの」を多く扱うといえるでしょう。
生田流
奈良時代に唐から伝来した13絃の箏は、江戸期に入り宮廷から民間へと広まっていきました。
江戸期において、楽器としての箏と箏曲の基礎を大成させた人物が八橋検校(やつはしけんぎょう)です。
八橋検校は、箏の調弦を律音階から都節音階にもとづくものに変えて、多くの曲を作り、現在の箏曲の基本形を整えたと言われています。そして江戸時代中期には、北島検校(きたじまけんぎょう)の弟子である生田検校(いくたけんぎょう)が箏の楽器法、楽曲法を大きく発展させました。
この流れが生田流の始祖とされ、大正時代から昭和初期にかけて西洋音楽の要素を取り入れた宮城道雄(みやぎみちお)の新日本音楽が、彼の名とともに箏を世界に紹介することとなりました。
三絃(さんげん)について
中国で生まれた三絃は、ペルシャ(イラン)のシタールがルーツになっていると言われ、13世紀末期に元(中国)から琉球へと伝わり、琉球王府のもとで長い年月を経て三線(さんしん)となります。
その後、15世紀中頃、大阪商人たちの手によって三線が堺(大阪)へと伝わり、盲人音楽家「琵琶法師」たちによって犬や猫の皮を張るなどの改良が加えられ、三味線(しゃみせん)の原型が誕生しました。(当時の堺では三線に張るニシキ蛇の皮を入手するのが非常に困難であったため、犬や猫の皮が用いられました。)
16世紀初期には三味線の名手であった八橋検校、柳川検校らによってさらに改良が加えられ、現在の三味線の形へと大成することとなりました。
地歌について
盲人音楽家「琵琶法師」たちが三線を改良し、琵琶を弾く撥(バチ)で三味線を弾いたことから、三絃音楽の地歌が始まったと考えられています。
中でも石村検校は三味線音楽の始祖とされ、主に當道座の盲人音楽家たちによって作曲、演奏、伝承されました。
現存している最も古い楽曲としては、16世紀初期に完成されたと考えられている「三味線組歌」があります。
17世紀初期には、生田検校によって上方(京阪地方)で三絃と箏曲が合奏するようになり、上方で独自の発展をとげたものを上方歌、または土地の歌という意味で地歌と称しています。
後に地歌から義太夫節、浄瑠璃、長唄、豊後節など、さまざまな流派が派生したと考えられています。